ポルテーの就業規則
懲戒処分できる就業規則にしよう
この話は、フィクションです。
登場する団体や人物は、実在するいかなる団体や人物とも関係ありません。
「今日もこれから暑くなるなあ」
土曜の朝、時枝は誰も出勤していない事務所に入ってつぶやいた。
7月に入ってから、テレビでは「観測史上なかった暑さの更新」を連日伝えている。
電気と冷房をつけた後、電話が鳴った。
「はい、ポルテー経営法務、時枝です」
「あのう、ちょっとお尋ねしますが、労働問題の相談には乗っていただけるのですか」
初めて電話して来られる方のようだ。
「はい、どのようなご相談でしょうか」
「弊社、スーパーさとうと申します」
社名は聞いたことがある。埼玉県内に何店舗か展開している地域スーパーだ。電話の声は続いた。
「実は、以前解雇した従業員が、ユニオンに加入したようなんです。
で、会社に文書が送られてきましてね。
ちょっと込み入っていますので、一度お伺いして相談したいのですが…」
確かに重たい話だ。平日で来所していただく日時を決めた後、最後に付け加えた。
「当日は、ユニオンからの文書に加えて、貴社の就業規則もご持参ください」
インターネット書き込みへの処分で失敗!
約束の日に事務所を訪れたのは、2名の男性だった。
50代で七三分け、スーツ姿の男性は社長の佐藤氏、60代の半袖ワイシャツの男性は店長の渡辺氏という。
佐藤社長は、席に着くとすぐに鞄から文書を取り出し、テーブルの上に置いた。
「こんなものが届きましてねえ」
見ると、FAXで送られてきた紙だ。
標題は、「組合加入通知書・要請書及び団体交渉要求書」とある。
発信者は、浦和のユニオンだ。
A4紙3枚にわたってぎっしり書いてある内容は、次のようなものだった。
①スーパーさとうを解雇されたA子さんは、当組合に加入した。
②スーパーさとうは、A子さんの不当解雇を撤回し、慰謝料としてXXX万円を支払え。
③組合は、X月Y日にスーパーさとうに団体交渉を申し込む。
「読ませていただきました。
ところで、A子さんは年齢はおいくつですか」
これには、A子の上司という渡辺店長が答えた。
「28歳です」
「勤続年数は?」
「3年です」
「仕事ぶりや性格はどうでしたか?」
「仕事はできるほうでした。社交的ですが、気は強いです」
「承知しました。では、A子さんを解雇したご事情から教えていただけますか」
渡辺店長の話は、次のようなものだった。
ある日、渡辺店長は、店の若いパート従業員から次のようなことを言われた。「A子さんがウェブサイトに会社の悪口を書き込んでいますよ」
渡辺店長は、店の奥にある事務スペースに向かった。そして、パート従業員から送ってもらったリンクをパソコンで開いてみた。
すると、次のような画面に変わった。
「スーパーさとう浦和店、店長のパワハラと口臭まじきつい。
サビ残も当たり前。
就職するみんな、ブラックだから来ないほうがいいよ」
渡辺店長は、パソコンの前で腰を抜かしてしまった。そして、ようやく少し落ち着いてから、他に書き込みはないか、画面をくまなく見た。
すると、「投稿者」のところに「princess1990」とあった。
(何がプリンセスだ! 自分の名前は隠しておいて!)
渡辺店長は、A子のことを「若いながら仕事に積極的だ」と思って目をかけていた。
それだけに、裏切られた思いも強い。
「A子さんはどこだ!」
と、シフトを見ると、本日は休みだった。
「そうだ、まず、社長に報告しなくては」
渡辺店長は、あわてて受話器を取って、本社の短縮ボタンを押した。
翌日、本社の広い会議室には、佐藤社長、渡辺店長が並んで座っていた。そして、会議用テーブルを差し挟んで、A子が一人座っていた。
最初に、佐藤社長が口を開いた。
「A子さん、この書き込みは、あなたがしたものなのか?」
そして、問題の書き込みを印刷した紙をテーブルの上に置いた。
A子は、紙をチラッと見ただけで、「はい」と答えた。
(おっ、素直に認めるのか)
佐藤社長は少し驚きながらも、言葉を続けた。
「何でこんなことをするんだ! うちの会社のイメージがガタ落ちじゃないか!」
A子は、10秒ほど黙っていた。
そして、意を決したように、強い口調で答えた。
「でも、ぜんぶ本当のことです。
カゼで休んだ人のことを、渡辺店長はみんなのいる前で大声で叱って、みんな本当に嫌な思いをしているんです。
それだけで終わらず、連絡ノートに『自覚が足りない』とかって書かれると、パートもアルバイトも全員が見ますよね。
みんな渡辺店長のパワハラだって言ってますよ」
渡辺店長は、佐藤社長のいる前で自分のことを言われて慌てた。
「それは、心構えを言っているのであって、全然パワハラなんかじゃないっ!」
「閉店後にレジを締めるときだって、当番の子にタイムカードを切ってから現金を預けに行くっていう店のルールだって、サービス残業ですよね!?」
A子の反撃で形勢が変わりそうだ。
そこで、佐藤社長と渡辺店長は、ウェブの書き込みの話しに戻そうとした。
佐藤 | 「そうした話はまた聞くから、とにかく書き込みを削除しなさい! こんな書き込みは、会社の名誉毀損だ」 |
---|---|
渡辺 | 「そうだ!とにかく削除しなさい!」 |
そして、二人はA子に向かって、「削除、削除」と繰り返し唱えた。
しかし、強く迫っても、穏やかに説いても、A子は首をタテに振らない。
30分ほど続けているうち、佐藤社長はだんだん怒りがこみ上げて、つい口走った。
「これだけ言っても、削除しないというのか? こんなものを書いておいて削除しないなら、あなたはクビだ、懲戒解雇だ! 明日から出社しなくていい! そして、名誉毀損で訴える!」
A子は、憮然とした表情で、一礼もせず会議室を出て行った。
そして、翌日から出勤しなくなった。
「就業規則とか、ふだんは見ませんからねえ…」
「そういうご事情だったんですね」
時枝は、佐藤社長と渡辺店長が事務所に来所した経緯を把握した。
ここから先は、佐藤社長とのやり取りだ。
時枝 | 「懲戒解雇は、後で書面を作ってA子さんに送ってはいませんか」 |
---|---|
佐藤 | 「いえ、その場で口頭で通知しただけです。 ところで、この団体交渉というのは、受けなければいけないのですか?」 |
時枝 | 「はい、労働組合法上、会社には応じる義務があります」 |
佐藤 | 「団体交渉に応じないでいたら、どうなりますか」 |
時枝 | 「埼玉県労働委員会に、不当労働行為救済申立を起こされる可能性が高いです」 |
佐藤 | 「なんですか、その、不当なんとかとは?」 |
時枝 | 「会社が正当な理由なく団体交渉を拒否するのは、不当労働行為になります。 すると組合は、『会社が不当労働行為という法違反をした』と訴えるのです。 裁判とほぼ同じ手続きで、解決まで2年くらいかかります」 |
佐藤 | 「はぁ~、そうなんですか。 団体交渉は、受けなくてはならそうですね…」 |
時枝 | 「ところで、本日は就業規則をお持ちですか」 |
佐藤社長は、ファイルから就業規則を取り出して、机の上に置いた。
「スーパーさとう就業規則」と書かれた表紙の色は、黄ばんでいる。
それでいながら、折り目はまったくなく、きれいだ。
時枝は、就業規則を手にとって、まず附則を見た。
時枝 | 「平成12年4月版のようですが、これは最新版でしょうか」 |
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佐藤 | 「はい、あの、ちょっと古いんですが、現在のものです」 |
時枝 | 「この就業規則は、浦和店に置かれているものですか」 |
佐藤 | 「いえ、これは本社のものですが、全店舗とも同じ内容です」 |
時枝は、懲戒事由の条項を探して、佐藤社長の前に開いて置いた。
「A子さんの懲戒事由ですが、どれに当てはまりますか」
第64条 2 従業員が次のいずれかに該当するときは、懲戒解雇とする。
① 重要な経歴を詐称して雇用されたとき
② 正当な理由なく無断欠勤が14日以上に及び、出勤の督促に応じなかったとき
③ 正当な理由なく無断でしばしば遅刻、早退又は欠勤を繰り返し、3回にわたって注意を受けても改めなかったとき
④ 正当な理由なく、しばしば業務上の指示・命令に従わなかったとき
⑤ 故意又は重大な過失により会社に重大な損害を与えたとき
⑥ 素行不良で著しく社内の秩序又は風紀を乱したとき
⑦ その他前各号に準ずる不適切な行為があったとき
佐藤 | 「えーっと、就業規則とか、ふだんは見ませんからねえ…。 うーん、④が当てはまると思います。A子は、書き込み削除の指示に従いませんでしたから」 |
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時枝 | 「④には、『しばしば』という文言があります。 つまり、複数回の指示違反があったことが前提です。 A子さんは、重大な指示違反を他にもしましたか」 |
佐藤 | 「あ、④ではなく、⑤に該当すると思います。A子の書き込みは、会社にとって重大な損害です」 |
時枝 | 「会社が確かに損害を受けた事実を、数字で説明できますか。売上が前年比でいくら下がったとか、応募者が昨年より何人減ったとか。 しかも、その原因がA子さんの書き込みだという因果関係の説明も必要です」 |
佐藤 | 「だめか…。では、⑥で行けませんか。 A子の書き込みのせいで、他のパート従業員もざわついているのは事実です」 |
時枝 | 「社内秩序が乱れるとは、社内での業務遂行に支障が出ることをいいます。 他の社員の業務に支障が生じましたか」 |
佐藤 | 「…じゃあ、⑦のその他しかありませんね…」 |
時枝 | 「懲戒の定め方が弱いですね。 懲戒処分は、ドンピシャで該当する理由が書いていなければ、原則使えません。 失礼ですが、この就業規則は、いざというときに会社がやるべきことをやれない就業規則です」 |
社長の前に立つ、トラブル対応の“扉”
佐藤 | 「そうでしたか。では、すぐに就業規則を変えますか」 |
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時枝 | 「就業規則を直すのは、今後のためには役立ちます。 しかし、A子さんの懲戒解雇にさかのぼって当てはめることはできません。不遡及の原則といいます。 そもそも就業規則は、規定して、社内周知して、それから法律上の効力が生まれます」 |
佐藤 | 「そうですか…」 |
時枝 | 「それと、貴社には懲戒の種類に何と何とがあるか、ご存知ですか」 |
佐藤 | 「いや、就業規則とか、ふだんは見ませんからねえ…」 |
時枝 | 「では、こちらが貴社のできる懲戒処分の選択肢です」 |
第63条 会社は、従業員が次のいずれかに該当するときは、その情状に応じ、次の区分により懲戒を行う。
①譴責 始末書を提出させて、将来を戒める。
②減給 始末書を提出させて、減給する。ただし、減給は1回の額が平均賃金1日分の5割を超えることはなく。総額は1賃金支払期における賃金総額の1割を超えることはない。
③出勤停止 始末書を提出させるほか、10日間を限度として出勤を停止し、その間の賃金は支給しない。
④懲戒解雇 予告期間を設けることなく即時に解雇する。この場合、所轄の労働基準監督署超の認定を受けたときは、解雇予告手当を支給しない。
時枝 | 「貴社の場合、4種類の処分ができます。 そして、懲戒処分は、量刑をよく考えないといけません」 |
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佐藤 | 「量刑、ですか」 |
時枝 | 「はい、本人がしでかした行為と、処分の重さとのバランスです。 懲戒解雇は、社内で一番重い、いわば極刑、死刑にあたります。一方、悪質な書き込みは、名誉毀損罪にあたります。 ですから、名誉毀損罪にあたる行為で死刑にすれば、『量刑がやり過ぎで無効』とされます」 |
佐藤 | 「やり過ぎ、無効、ですか…。 うちは、これからどうすればいいでしょうか」 |
時枝 | 「まず、団体交渉を通じて、本人が会社に戻りたいと思っているのか、金銭を取って去りたいと思っているのか、真意を聞きましょう。 それと、こうしたトラブル対応では、実は、社長さんの前に扉がいくつもあるんですよ」 |
佐藤 | 「はあ、扉、ですか」 |
時枝 | 「はい。ある扉は、最善の結果への道が続いています。別の扉は、苦労ばかりする道へと続いています。 どちらの扉も目には見えません。そして、どちらの道も、途中で後戻りはできません。 弊社の社名『ポルテー』は、フランス語で扉の意味です。今ここから、少しでも良い結果に続く道への扉を、様々な視点から探していきます。 あとは、勇気をもって進んでまいりましょう」 |
佐藤 | 「…わかりました。よろしくお願いします」 |
そう言ったものの、佐藤社長は呆然とした思いだった。自分にとっての扉は、会議室でA子と向かい合っていたあたりに、きっとあったのだろう。
佐藤社長の視線の先には、テーブルの上に置かれた、スーパーさとうの黄ばんだ就業規則の表紙があった。
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